ド・深夜

僕は俗っぽいことを言うと虫唾が走るタイプで、最近の筆頭格は「コロナ」の三文字である。ウイルス及び病気についてどうこう言っているのではなく、ただなんか話題の言葉を口にするのがはばかられるのである。ただ、今回それはどうでも良い。

 

僕らの世代は、何かしらの損害を被っている。僕にとっては、対面授業の停止、行事の中止、その他イベントの中止とうとうとうとう。そんな状態が一年以上続き、いや、もう騒ぎが始まったときから分かってはいたことだけれど、

「やり場のないやるせなさ」

にHPを削りきられてしまった。

責めようがない、誰に、何を言うこともできない。不幸な事故でしかないんだ、頭の中で何度も何度も考えてきて、結局変わらぬ結論。それが続きすぎてしまった。

でそれでさらに気付く。

「こんなようなことって、元もと身近に存在するんだよな」

例えば、人間関係。誰しもが他人の気持ちを理解するというのは、客観的には不可能だ。いつだって主観でしかないし、特に自信があったときさえ往々にしてハズれるものでもある。誰だって隠したいことはあるし、それが理由で他人と軋轢を生むこともある。

 

僕も怖い。

僕の友人たちは、ほぼ必ず、一度「ウザいな」と思う瞬間が来るらしい。そこで嫌われるが、あと少しの時を経て再び友人となりえる。そしてそいつとは腐れ縁的に通じ合うことになる。そんなやつらには別に嫌われてもいい。

なぜならば、分かっていなくても好きになれるから。

また、全く見も知らぬ人は真逆で、これは大方が同意見だろうが、一生に一度の出会いみたいな人には嫌われたところでどうということもない。そういう人に対しても強く出ることができる。

問題は、その間。

何が問題かって考えると、原因として博愛主義的感情が関係しているのではないか。

僕は、嫌いになる人がそうそういない。ごくまれに嫌いになりそうな人に対しては五感をミュートしているし、ひとりすら挙げることが難しい。でもだから、調和を夢見る。

一般日本人とは異なるが、結局目指す先は同じになってしまった。ただ素直な感情である。

しかし、思考すればするほど、不穏が起きたところでどうでも良いと思えてくる。部外者にとっても、当事者にとってすら。その行きつく先が、今の僕の友人たちのような存在ではないのか。

 

結局、「好き」「嫌い」なんか感情論でしかない。

何も考えない方が、絶対に強い。

みんなから好かれるのはどう足掻いても不可能だ(なぜなら、みんなから好かれていることが嫌いになる理由になる人もいるから)。

受け容れなければならないというよりかは、もっと積極的に受け容れてやろうとすることができるのではないか。

 

いーや、それはあくまで僕だけのやり方に過ぎない。